No.5 きげこ/海龍神 (2/8)
(きげこ)
ホームに電車が滑り込んでくる。どの車両も通勤・通学の人々ですし詰め状態だ。
ヴァイスはそのうちの一つにどうにか自分の体を押し込んだ。直後、鼻先でドアが閉まり、電車が出発する。
間に合ったと、走ってきて暴れる胸を一度大きく深呼吸して落ち着かせた。
ヴァイスはクラウディア学園高等部の魔法学コースに通う二年生だ。クラウディア学園は巷ではそこそこ有名な中高一貫校で、多くの専門コースを設置しており、特に士官コースと魔法学コースは優秀な卒業生を多く輩出していることで定評がある。
彼はその魔法学コースで生活態度も勉強も優等生として通っており、朝も本当は慌てて出ているわけでも遅刻の常習犯でもない。
実は昨日、レポートの提出日を勘違いしていたことに気付き―本当は明日提出なのに明々後日提出だと思っていた―、慌てて取り組んでいたのだ。
おかげで眠ったのは朝方の4時過ぎで、携帯の目覚ましアラームにも気付かず、飛び起きるはめになってしまった。
恋人であり同居人でもあるレイナスはクラブの朝練があるので、ヴァイスよりずっと早くに起きて家を出る。いつもは彼が作ってくれる朝ごはんを食べて出るのに、今日はおかげで食べられなかった。仕方ないので包めるものは包んでかばんに放り込んだが。
と、ヴァイスは突然生まれたざわりとした感触に肩を強張らせた。
それは腰からすぐ下、足の付け根辺りで蠢くようにざわざわと生まれていた。
最初は誰かのかばんか何かが当たっているのかと思ったが、それは違った。
(痴漢…?!)
そう悟ったと同時に、ヴァイスは自分が立っている場所に歯噛みした。そこは車両の端、ドアのすぐ脇の角だったのだ。すし詰め状態のこの中ではろくに振り向くことも手を振り払うこともできない。ヴァイスはかばんを持つ手に力を込めて耐えるしかなかった。
だがその手はさわさわと手慣れた様子でヴァイスの太腿から尻、さらには前にまで手を伸ばしてこようとする。
「…っ!」
思わず声が出そうになるのを必死にこらえた。
だが手はそれが分かったのか気を良くして更に攻めてくる。
電車が駅のホームに滑り込む。ヴァイスが降りる駅までまだあと二駅。この状態のままいなければならないのかと、さらに手に力を込めたそのとき、電車のドアが開くと同時に一人の男が吹っ飛ばされてホームに転がった。
「なんて羨ましいことしてやがんだっ!この下衆野郎が!」
「ひいぃっ!」
男は情けない声をあげて倒れ、殴られて出たらしく白いワイシャツを鼻血で赤く染めていた。
「大丈夫か?」
そう振り向いたのは30歳前後で、口髭を生やし、赤茶けた長い髪を後ろでひとまとめにした男性だった。微笑んだ口元に愛嬌があって目がどこか少年っぽい輝きを放っていた。彼は明らかにヴァイスに向かって言っている。
「あ…は、い…?」
あまりに唐突でヴァイスは一瞬何が何だか分からなかった。周囲の人々は何だ?という視線を投げかけるが、立ち止まることはせずそのまま素通りしている。
その中で彼だけが、ヴァイスを気にかけていた。
しかし、ヴァイスは彼が痴漢を殴り倒す前に言った事が何かおかしくなかったかと内心首を捻っていた。あまりに唐突過ぎたのと痴漢にばかり注意がいっていたので、よく覚えていない。
だが、次に彼が放った言葉に、ヴァイスは考えるのを止め、その男を思いっきりカバンで殴っていた。
「しかしまぁ…あいつの気持ちも少し分かるかもな」
「はい?」
「だって男好きする顔してるからな」
殴った後はその男が蹲ったのかそれとも倒れたのかも知らない。ヴァイスは怒り心頭のまま、次の電車に乗ったからだ。
朝のホームルームが終わっても姿を見せないヴァイスに、レイナスはやきもきしていたが教室に入ってきた姿にほっとした。
「ヴァイスが遅刻なんて珍しいね?朝、一応起こしたんだけど二度寝でもした?」
「ええ、まあ…そんなところです」
ヴァイスは曖昧に頷いてこちらを見ようとしない。レイナスは小首を傾げたが、彼の眉間に寄せられた皺に気付いて何かあったのかといよいよ気になる。
「どうかしたの?」
「………」
話そうか話すまいか―。
ヴァイスは悩んだ。
レイナスはヴァイスのことを何よりも優先して考えてくれる。今回の事を話せば下手すれば朝練を休んで一緒に登校するとも言い出しかねない。だがそれはあまりにも…―
と、そのとき、教室のドアが開いて教師が入ってきた。だがヴァイスはその人物に思わず目を見張った。
赤茶けた長い髪、少年っぽい目元に愛嬌のある口。
そこにいたのは、あの駅のホームではっ倒した男だった。
レイナスはヴァイスの目が驚きに見開かれたのを見逃さなかった。そして、一瞬、頬に赤みがさしたのも―――