No.5 きげこ/海龍神 (3/8)
(海龍神)
それは羞恥からか、怒りからか。
微かに頬を染めたヴァイスは、教室に入ってきた教師を見つめていた。
教壇に立つなり、男は自分の素性を明かす。
「俺は、ハント・グレイウォール。今日からこのクラスの数学を担当する事になった。よろしくな!」
赴任してきた理由は、前任のレイラ先生が産休の為というありふれた物だ。
旦那を思うとどんな子が生まれるのか、考えるだけでも恐い…気がする。
だが、ヴァイスにはそんな事を考える余裕はなく、今朝の不快な出来事と教壇に立つ男…ハント先生の言葉だけが壊れたCDの如く繰り返されていた。
それをじっと見つめていたレイナスは、彼と同じようにハント先生に視線を向ける。
赤茶けた長い髪、愛嬌のある口には髭を生やし、渋い大人らしさを感じた。
だが、それとは対照的に少年のような瞳を輝かせ、口にする言葉はとても友好的で初対面でも生徒達からは好感の眼差しを向けられている。
それだけをならば、『良い先生じゃないか』とレイナスも思った筈だ。
だが、再び向けた視線に気付く事もなくハント先生を見つめるヴァイスに、レイナスは不快感を覚えた。
同時に、嫌な予感も…。
「ヴァイス」
「え…、あ、なんですか…?」
「あの先生の事、知ってるの?」
「そ、それは…」
決して疑いを露にした問いかけではなかった。
だが、ヴァイスは直感的に『疑心』を含むのだと判断する。
それは、いつも優しいレイナスの瞳が、鋭い輝きを宿していたからだ。
ヴァイスは、瞬間的に言葉を探した。
真実をそのまま告げるべきか、それとも言わないで置くべきか。
先ほども言ったが、レイナスはヴァイスに対してとても優しい。
何があろうとも自分を優先してくれるほどである。
ただ、それはレイナスが頑張っている事さえも妨げてしまうのだ。
―朝練を休んで一緒に登校するとも言い出しかねない―
まさにそれである。
だからといってここで隠し通そうとすれば、変な誤解を招くとも限らない。
純情な彼であるから尚更だ。
ヴァイスはちらりちらりとレイナスを視界に納めつつ、何か良い言葉は無いかと素晴らしい頭脳をフル稼働させた。
だが、こんな時だからこそ、動揺して何も言えなくなるのが常である。
そんな二人のやり取りに気付いたのか、それとも最初から気付いていたのか、はたまた気付いていた上で機会を伺っていたのか。
名簿を読み上げる中のほんの一瞬、ハント先生はその髭を生やした口端を上げた。
二人の関係をそのやり取りや表情から悟ったらしいハント先生は、ヴァイスが本当に困ったと言わんばかりの表情で言葉を探す最中にその名を呼ぶ。
「ヴァイス・ランドシーカー」
「えっ、あっ、は、はい…」
「今朝は過激なプレゼント、ありがとよ♪」
「な…っ!!」
突然の呼びかけに意識が現実へと引き戻され、更には必死に悩んでいた事さえ足蹴にするかの如く投げられた言葉に、ヴァイスは今度こそ真っ赤になってその綺麗な顔を歪めた。
だが、その言葉に反応したのはヴァイスだけではない。
なんだなんだと騒ぎ立てるクラスメイトを背に、レイナスはその顔にはっきりと怒りを携えている。
それには勿論気付いているのだろうがハント先生はそれを気にも留めず、余裕を持った笑みで生徒達のざわめきを静めた。
どちらともなく拳を握り締めた二人は、授業中ずっとハント先生を睨みつけていたという。
「れ、レイナスさん…っ?」
授業終了のチャイムと共にその腕を引かれて教室を出たヴァイスは、その時になってようやく気づく。
この一時間、ハント先生の挑発染みた言葉に湧いた怒りを静めることばかりを考えていた。
例え相手がどんな人間であれ…そう、腐っても先生なのだ。
朝の出来事では怒り任せに殴り飛ばしたが、さすがにその立場を知ってしまうとヴァイスは耐える事を選ばざるをえない。
だが、レイナスは別だ。
相手が誰であれ、ヴァイスの事なら放ってはおかない。
その事に気付いたヴァイスは、今更であったとしてもちゃんと今朝の出来事を話しておくべきだったと後悔した。
「さっきのハント先生が言ってた事…、あれってどういう意味なんだ?」
足を止めたレイナスは、振り返る事もせずにそう問いかける。
最初は優しくと努めていたのであろう声は、語尾に到達するまでには低く落ちていた。
それは怒りからか不安からか、握り締めた手が微かに震えている。
その様子に、ヴァイスはゆっくりと口を開く。
「実は、今朝…痴漢に遭って…」
「痴漢…っ?!」
ようやく振り返ったレイナスは、今度は明確に怒りの表情を浮かべた。
ともすれば、その犯人を殴りに行くとでも言いそうな勢いであった為、ヴァイスはそっと握る手を撫でる。
そして今朝の出来事の続きをと開いた口は、それ以上言葉を紡ぐ事は出来なかった。
何故なら、レイナスが険しい表情と共に、ヴァイスの背後に怒りの視線を向けていたから。
振り返ったヴァイスは、途端に表情を強張らせる。
そこに居たのは、ハント先生だった。