No.5 きげこ/海龍神 (5/8)


(海龍神)

 クラウディア学園が一望出来る校舎の屋上は、ヴァイスが好きな場所だ。
 吹き抜ける風と澄んだ空気の匂いが心を落ち着ける。
 なにより、ここはレイナスとの昼食デートの場所だ。
 二人で談笑する時間が、ヴァイスには最も幸せな時である。
 だが、そんな好きな場所であっても相手が違えば感情も大きく変わるもので、それが得体の知れない教師なら不快感ばかりが増した。
 ヴァイスは落ち着きなく視線を走らせながら、何とかこの場を去る方法を思案する。
 だが、男らしい大きな手に掴まれた腕を開放する術は、今のところない。
 魔法で一撃を見舞ってやろうかとも考えたが、何かをされたというわけではないのだ。
 教師相手にそんな事をしようものなら、最悪退学は覚悟しなければいけないだろう。
 結局、渋々と彼について歩くしかなかった。
 そんなヴァイスの様子をずっと見ていたのか、ハント先生はすっと目を細めて口を開く。
「ふーん…」
「な、何ですか…?」
「アイツが居ないと心細いのか?」
「別に…。それより、ここでいいでしょう? 用があるなら早くお願いします」
 とにかく早く逃れたい一心で、ヴァイスは端的に用件を尋ねた。
 だが、ハント先生はきょとんとした顔で見つめ返したかと思うと、『ああ…』と何かを思い出したかのように口にした。
 その行動事態が何やら怪しい。
 そう思う時点で、ヴァイスは既に偏見を持った瞳で先生を見ているのだろう。
 だが、その偏見を肯定するかのような発言に、ヴァイスは深々と眉を寄せた。
「美人さんとはお近づきになっておかないとな♪」
「…は?」
「ヴァイス…だったな。俺とデートでもしないか?」
「っ!!」
 ほんの一瞬。
 瞬きをした瞬間に、髭を携えた顔が眼前に迫っていた。
 鼻が触れ合いそうなその距離に驚いたヴァイスは思わず握られた手とは反対の手を振り上げ、さすがにそれを予期する事は出来なかったらしいハント先生はものの見事に平手をその頬に受けた。
「わっ、私はレイナスさんと付き合っているんですっ!! デートなんてお断りしますっ!!」
「痛っ〜…、思った以上に気が強そうだなぁ…。まあ、その方が燃えるけど…ぐはっ!」
 耳障りな言葉は、早々に黙らせたい。
 いつだったか、レイナスが二人分のカフジュレーを両手にナンパ男を追い返したのを思い出し、見よう見まねで腹部に一蹴りしてみると思いのほか綺麗に決まったようだ。
 冷たい視線と共にどこか満足したような瞳を覗かせながら、ようやく自由になったヴァイスはその行いを逆手に取り見下すような物言いでハント先生に言った。
「教師の癖に、生徒にセクハラ紛いの行為はどうかと思いますよ?」
「セクハラって、まだ何もしてないだろう…っ? それに、いかにも体育会系で不器用そうなアイツより、紳士的且つ素晴らしく素敵にお誘いしたつもりだぞ…っ」
「どこが『紳士的且つ素晴らしく素敵』ですか? 俺は厭らしくて小汚い年増よりも、体育会系で不器用で純情で可愛い人の方が好みなんです」
「こ…っ、小汚い…っ?!」
「フンっ!」
 辛辣な言葉がさすがに堪えたようだ。
 信じられないとでも言うように肩を落としたハント先生を鼻先であしらって、ヴァイスは彼に背を向けて小走りでその場を後にした。
 放置されたハントが立ち直ったのは、夕方か深夜か早朝か…。
「俺のどこが小汚いんだああああぁぁぁぁっ!!」
 とにかくショックだったらしい。


 先ほどのやり取りを思うと、変な誤解を確実に招いたであろう事は簡単に想像がついた。
 早くレイナスに会おう。
 会って、朝の出来事から全て話すのだ。
 逸る気持ちを抑える事もせず、ヴァイスはレイナスを探して校舎を駆け抜けた。
 そして、レイナスはいつでも会いたいと思った時にそこに居る。
「レイナスさんっ!!」
 階段の踊り場にその姿を見つけ、ヴァイスはその名を叫んだ。
 だが、その声に気付いたレイナスは足を止めただけで、振り返る事はしなかった。
 嫌な予感が胸を締め付ける。
 走り続けて乱れた呼吸を整えながら、ヴァイスはその背に向けて言った。
「あの…、レイナスさん…。今朝の事なんですけど…」
「痴漢にあった時、先生に助けられたんだろう?」
「え、ええ…。でも、どうして…」
 何故レイナスが知っているのだろうかと眉を寄せたヴァイスは、それでも振り返る彼を見てそれ以上は言葉を口にしなかった。
 いや、出来なかったのだ。
 その瞳が、怒りに燃えていたから…。
「格好良くて見惚れてたんだってね。まあ相手は大人だし、先生になるくらいだから頼りにもなるだろうな」
「ちょっ、ちょっと待ってください…っ!」
「俺より、ハント先生の方がいいんだろう?」
「良いとか悪いとか、それ以前に私は…っ」
「今朝、先生を見て真っ赤になってたじゃないか。ハント先生が好きなんだろう?」
 ふいとそっぽ向くその様を見れば、妬いているという事は簡単にわかった。
 けれど、何と返そうがレイナスに聞く耳はなく、畳み掛けるように冷たい問いかけが投げられる。
 一方的に向けられる怒りに反論も儘ならない。
 言葉を返すことさえ彼の嫉妬の炎に油を注いでいるような気がして、次第に俯き始めたヴァイスの言葉は消えていく。
 反論さえしなくなったヴァイスに、レイナスもまた口を噤んだ。
 そのタイミングを見計らっていたのだろうか。
 沈黙が流れた一瞬。
「痛っ!!」
 俯いたヴァイスは、そのままにレイナスの頬を叩いた。
 驚きに目を見開いたレイナスは、視界の隅でヴァイスの口が微かに動いたのを見る。
 ぐっと握り締めた拳を振って去っていくヴァイスを視界に納めたまま、レイナスは呆然とその場に立ち尽くしていた。
― 話さえ聞いてもらえないんですね… ―
 そう呟いた小さな声を、脳裏で反芻しながら…。