No.5 きげこ/海龍神 (7/8)
(海龍神)
嫌われてしまっただろうか。
放課後になっても教室から出る事が出来なかったヴァイスは、隣の席をただじっと見つめていた。
突然早退してしまったレイナスは、帰ってしまったのか…それとも…。
本当に居なくなってしまうのではないかと思うと、口先だけの言葉を悔いるしかない。
ゆっくりと立ち上がって、その机に触れ、椅子に座り、彼の座り方を真似る。
そうすると、いつもレイナスが見ている景色が見て取れた。
自分の席と僅かに違うだけで見える物が全く違うのは、彼がヴァイスの方を向いて座るからだろう。
いつも、真っ先に自分の事を考えてくれる、優しいレイナス。
「…もし、家に帰っていなかったら…」
そう思うと、その場から動く事は出来なかった。
その時、携帯の着信音が静かな教室に鳴り響く。
届いたメールの送り主は、同級生の妹…。
対した感慨も持たない筈の相手なのに、メールの文面を見た途端にヴァイスは教室を飛び出した。
風が吹きぬける屋上。
息を切らしてやって来たヴァイスは、そこで繰り広げられる光景に眉を深々と寄せる。
届いたメールは、レイナスとハント先生がヴァイスへの想いを賭けて勝負をするという内容だった。
だが、レイナスが嫌いになっていなかったという事に、ヴァイスは嬉しさを隠せない。
とはいえ、目の前で繰り広げられているのは、『勝負』という名の通り男らしく殴り合いだったのである。
荒い呼吸を整えることもなく、ヴァイスは心配そうにその様子を見つめた。
「絶対にヴァイスは渡さないっ!」
「お前、アイツを泣かせただろ? で、お前は勝手にへそ曲げて早退だ」
真剣な眼差しで想いを拳に託すレイナスは、普段剣道部で鍛えた腕力がある。
ヴァイスが安心して自分の身を任せられるほどに強い彼が、拳での勝負で負けるとは思えない。
だが、相手も中々の腕を持っているようだ。
早く重みがあるレイナスの拳は正直過ぎるほど真っ直ぐで、ハント先生は間一髪で退ける。
そして繰り出す拳は、レイナスの素直な解釈では想像も出来ない場所に飛んでくるのだ。
お互いに拳が決まればダメージは大きく、二人とも唇からは血が、その頬には既に青痣も浮かんでいた。
決して実力で劣るレイナスではないが、ハント先生の余裕は十分に見て取れる。
動揺を煽る挑発が、レイナスの拳を鈍らせるようだ。
口端を上げたハント先生が、言葉を紡ぐ。
「俺なら、そんな事はしねぇし、そうなる前にどうにかするぜ? 大人なんでな」
「っ!!」
レイナスはどちらかといえば温厚系だが、それがヴァイスの事となれば話は別だ。
ハント先生の挑発が彼の逆鱗に触れたのだろう。
修羅…と言うには可愛いが、ヴァイスは一度も見た事のない怒りの形相で拳を振りかぶった。
「なにが大人だっ! 厭らしくてっ、小汚い髭じじいの癖にっ! いい加減枯れてしまえええええっ!!」
「な…っ、ぐはっ!!」
その言葉に動揺せざるえなかったハント先生は、ものの見事にその拳を顔面に受ける。
あのレイナスが、例えまだ一日目とはいえ、先生を相手にこんな暴言を吐くなど誰が思うだろう。
その暴言が、ヴァイスの胸をときめかせた。
(ああ…っ、私の為に…心を鬼にしてくださるんですね…っ! 素敵ですっ、レイナスさんっ!)
ヴァイスは思わず、その素晴らしい栄光を称えて涙を浮かべる。
ヴァイスへの想いと共に罵声を浴びせ、日頃の鍛錬で鍛えられた拳で想いの大きさを思い知らせるその姿。
今までのレイナスももちろん格好良かったが、今日この日の雄志がヴァイスには何よりも素敵に輝いて見えた。
そう、小汚い髭には負けるな…と。
さすが同棲しているだけあって、性格は違えど思考は似ているらしい。
『髭=小汚い』という発想は、ヴァイスと同じだ。
怒りはもちろんあるが、さすがにここまで来ると呆れて物も言えなくなる。
が、ただ言われっぱなし、ただやられっぱなし、というのは性に合わない。
「く…っ、そこまで言うならっ、俺を倒してみろっ!! 俺の屍を超えて行けええええっ!!」
痛む体に鞭打って、ハント先生は自棄とばかりに叫んだ。
一瞬の沈黙と吹き抜ける風が、酷く冷たいと感じたのは気のせいか。
いや、確かに冷めた視線がいくつか感じ取れた。
けれど、自分の言葉に恥らう事も、激怒する事さえも出来ないまま。
「変態髭じじいに、ヴァイスは渡さないっ!」
眼前に迫ったレイナスの暴言を聞きつつ覚悟を決める。
すべった以上は潔く散ってしまえ、と…。
「僕はっ、ヴァイスを愛してるんだあああああぁぁぁぁぁっ!!」
既に傷だらけになった拳が、その想いを乗せて黄金に輝いた…ように見えたのはヴァイスだけだろう。
見事にハント先生を打ち上げたレイナスは、まだ闘志の覚めやらぬ瞳で勝利を確信した。
屋上に大の字で倒れたハント先生は、『最後くらい決めさせろ』と言わんばかりに口を開く。
「フ…ッ! いくら最強の俺と言えど、ラブラブバカップルにゃ勝てねぇってか? 思いの力は強いんだな…」
「「消えろ、髭じじい」」
「そ、それで定着…っ?! ぐはっ!!」
頑張って足掻いてはみたが、二方向から向けられた言葉の刃に見事ノックアウト。
きっとどこかで見ているだろう恋する乙女の恋心が冷めたかどうかまでは解らないが、更にすべっていた事は言うまでもない。
その時になってようやくヴァイスの存在に気付いたレイナスは、一瞬戸惑った表情を見せたものの薄い笑みを向ける。
「なんとか、勝ったよ…」
「…レイナスさんが勝つと信じていました…っ」
その言葉と共に、透き通った涙が零れた。
思いのままに駆け寄ったヴァイスは、レイナスに飛びつく。
彼との身長差を埋めるように、ハント先生を堂々と踏みつけながら…。